【ボーはおそれている】ジーヴスはボーと対の存在か?【映画考察】

映画考察

アリ・アスター監督が世に放った悪夢的サイケデリック映画『ボーはおそれている』
筆者も本作に魅了され、四六時中ボーについて考えている人間の一人だ。
そんな中、ある一つの面白い考察が思い浮かんだので皆さんに共有しようと思う。

「ジーヴス」とは何者か?

車に轢かれてしまったボーが、療養の為一時的に身を寄せることとなった「ロジャー家」
主人のロジャーをはじめ、妻であるグレース、娘のトニーが住むごく普通の家庭なのだが、そこに一人だけ異質な存在が混じっている。

精神を患った退役軍人「ジーヴス」だ。

医者であるロジャー曰く、ここで治療を受けつつ一緒に暮らし、家族同然の人物だという。
だが、実際の扱いを観てみると、家族は豪華な一軒家に住んでいるのにジーヴスだけは併設されたトレーラーハウスのような場所に住んでいたり、窓からジーヴスがのぞき込んで何かを訴えるような眼差しで見ていてもほとんど触れなかったりと散々な扱いだ。

戦争から帰還した英雄で、今はここで心の治療をしているというが実際はロジャー(あるいはグレース)にいいようにされている駒のような存在なのだろう。
息子を戦争で失ったというロジャーからすれば、亡き息子の存在を埋める都合のいい存在であり。
グレースからすればいざというときに武力として利用できる存在であったのだろう。
※実際、物語中盤ではジーヴスにボーの殺害を命じている。

「ジーヴス」は「ボー」と対の存在

ジーヴスがどんなキャラクターなのか掴んで頂いたところで、本記事のメイン考察に入っていく。

結論から書くのだが、ジーヴスは本作の主人公であるボーと対の存在になっているのだ。

一見「?」と思うかもしれないが、よく考えてみてほしい。

弱々しくて
言われるがままで行動していて
モナへ愛を返すことを強要されているボー

屈強で
好き勝手に行動し、ロジャー家の面々に世話をさせていて
戦争から帰還した”英雄”であることを強いられているジーヴス

こうやって両者の特徴を並べてみると対局の存在であることがわかる。

男性的役割/女性的役割を強いられている両者

前述の通り、ボーは母であるモナへ愛を返すことを強いられている。
また、一人では何もできないような育て方をされた結果、他者に従うような生き方をしている。
これは、ボーに対してモナが「女性的役割」を強いて、自分を満足させるような子供になってほしいという願望を強要しているのではないだろうか?

愛を与えたら愛を返し
自分の思い通りに従う

そんな一昔前の「女性的役割」という枠組みをボーに押し付けているように感じる。

一方ジーヴスは、望む望まないに関わらず戦争の英雄として扱われ。
ロジャー家に対しての”敵”が現れたらこれを排除する。
これはジーヴスに対してロジャー家が「男性的役割」を強いているのではないだろうか?

「強くあれ」という観念を押し付けられ
外敵に対しては武力を行使しなくてはならない

そんなステレオタイプな「男性的役割」を押し付けられているように感じる。

上記の様にジーヴスはボーと対となる存在として描かれており、重要なキャラクターということが分かるだろう。

最後に

ふと『ボーはおそれている』についての考察を思いついたので、皆さんに共有するべく記事を仕上げてみた。
もしこの考察に対して意見や、「こんな考察はどうだろうか?」というものがあれば是非とも筆者に連絡を頂きたい。
十人十色の脳内ボーを思い思いに出力し、みんなでボー濃度を高めていこうではないか。

以上、「ジーヴスはボーと対の存在か?」でした。
読了頂きありがとうございました。

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