嵐のような9歳の女の子ベニー。幼少期、父親から受けた暴力的トラウマ(赤ん坊の時に、おむつを顔に押し付けられた)を十字架のように背負い手の付けようのない暴れん坊になる。里親、グループホーム、特別支援学校、どこに行こうと追い出されてしまう、ベニーの願いはただひとつ。かけがえのない愛、安心できる場所、そう!ただママのもとに帰りたいと願うだけ。居場所がなくなり、解決策もなくなったところに、非暴力トレーナーのミヒャはある提案をする。ベニーを森の中深くの山小屋に連れて行き、3週間の隔離療法を受けさせること…。
引用元:https://crasher.crepuscule-films.com/
映画『システム・クラッシャー』
危険で、暴力的で、置かれた環境を徹底的に破壊してしまう。
それが通称「システム・クラッシャー」と呼ばれる子供達だ。
怒りがコントロールできない9歳の少女、「ベニー」もまたケアホームを転々とするシステム・クラッシャーであった。
本作はベニーの切な願いと、周りの大人達の葛藤を描いた一作である。
「システム・クラッシャー」と呼ばれる子供達
システム・クラッシャーは現実にもある問題
恥ずかしながら筆者は、この映画を観るまで「システム・クラッシャー」という概念を知らなかった。
様々な要因から怒りの感情をコントロールできない、受け入れてくれる環境を破壊してしまう子供。
本作はまさに、主人公のベニーのような子供が現実世界にもいるんだということを知る機会そのものとなった貴重な映画だった。
恐らく、この映画を観なければ私は今後一生「システム・クラッシャー」について知ることはなかっただろう。
リアルすぎる支援者の問題
本作では、システム・クラッシャーであるベニーを更生・支援しようと沢山の大人が登場する。
善良な人間であり、心からベニーを救いたいという想いのもと様々な試み実施するのだが、その全てがうまくいかない。
例えば、非暴力トレーナーである「ミヒャ」はベニーと共に森の中で過ごし、更生させようと奮闘する。
木を一緒に伐採したり、自然の中で遊んだりする等、その姿はまるで父親のようにベニーの目に映っていた。
だが、3週間に渡る森林でのプログラムは、ベニーがミヒャに対して心を開き、親密になっただけで根本的な問題の解決には至らなかったのだ。
加えて、「トレーナー」という役割から逸脱するほどに距離を縮めてしまい、ミヒャと離れる際にベニーの心を深く傷つけてしまう。
その他にも、ソーシャルワーカーである「バファネ」は、施設をたらい回しにされるベニーの為に何度も何度も頼み込んで、安心して生活できる環境を整えることに奔走している。
ベニーの母親にもたびたび連絡しており、どうにかベニーが心安らぐ母のもとで暮らせないか奮闘するも、結局は力及ばず試みはすべて失敗する。
唯一ベニーを救える存在「母親」
献身的にベニーを支援するケアラーの努力もむなしく、彼女は次々と置かれた環境を破壊してしまう。
果たしてベニーを救うすべはないのだろうか?
ベニーが安らかに暮らすことはできないのか?
どうすればベニーは普通の生活ができるのか?
その全ての答えは、ベニー自身の口から出ている。
「ママと一緒にいたい」
そう、ベニーを救えるのは母親しかいないのだ。
ミヒャと森林で一時、楽しい時間を過ごしても
バファネの優しさに守られても
里親やケアラーに優しく接されても
ベニーは真に満たされないのだった。
破壊をやめられなかったのだ。
たった一つの願いである、母親の愛が手に入らない限りは。
手を差し伸べられない母親
前述の通り、ベニーを救えない人々ばかり積極的に手を差し伸べている。
対して唯一ベニーを救える存在である母親は、手を差し伸べないどころか自分の娘を遠ざけてしまっている。
作中では、ケアラー達によるベニーの今後に関する会議が何度も描写されているが、そのほとんどに母親の出席がない。
欠席の連絡を入れるどころか、音信不通になっている始末だ。
暴力的な側面を持つベニーを恐れ、施設に押し付け、他の娘と息子と暮らしているのだ。
こんなひどい話があるだろうか?
過去に父親に受けた行為がトラウマになって、暴れてしまう発作が抑えられない我が子に対する対応がこれか?と心から思った。
施設に入れた我が子にほとんど会いに行かず、何かと理由をつけて一緒に暮らせないと会うたびに言って。
あまりにもベニーがかわいそうではないか。
鑑賞中には我がことのように怒りがこみあげてきた。
映画を観ている際にここまで感情を動かされたのは久しぶりだった。
映画的ではないラストに込められたメッセージ
もし仮に、本作がいわゆる「映画的な物語」として作られていたならば、ミヒャと森で穏やかな時間を過ごしていくうちに、心を開き暴力的な側面を律せられるように成長する物語であったしただろう。
しかし、本作は「システム・クラッシャー」のリアルな実情を徹底的に描いた作品だ。
ベニーの暴走は改善せず
ミヒャとはどうしようもなく距離が離れてしまい
母親のもとにも帰れない
何も解決せず、ただ問題がそこにあることを見せつけられるのだ。
そして我々観客は、ベニーを通して「システム・クラッシャー」の存在を認識する。
その存在から目を背けてはならず、ただ我々は知らなければならなかったのだ。
本作が「映画的」な筋書きに則っていないのはきっと我々に「システム・クラッシャー」という問題がそこにあることを、「ベニー」がそこにいること作り手は知ってほしかったのだと私は受け取った。
あなたは、本作『システム・クラッシャー』をどう受け取っただろうか?
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